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自己紹介

ルッツィーともこ

TOMOKO  LUZZANA

✔ イタリア在住 英語コーチ

✔ あなたも 英語で 『外国人と共感できる』

海外勤務8年の実績から、現場で通じる生きた英語で伝えたいことがあふれてくる英語コーチングをご提供します。

ニューヨークで3年商社、ロンドンで5年銀行勤務
英語での勤務時間 14,000時間
担当した海外資本企業 300社以上

米国証券アナリスト(CFA) Level1 合格

​IELTS Academic 7.0

TOEIC 960

Versant 71

上智大学卒業 ジャーナリズム専攻

いつか絶対に英語を話せるようになる! 英語にめざめた田舎の子

 

山、川、田んぼ、ニンジン畑。30分に一本だけ各駅停車が止まる駅。

私が育ったのは、そんな岐阜の田舎でした。

 

中学2年生で、叔父が赴任していたイギリスに2週間の家族旅行へ。

 

言葉が通じないのも特に気にせず、現地の子どもたちと一緒に遊んでいたときに

日本から持って行った写ルンです(当時はやっていた使い捨てカメラのこと)を

男の子に持っていかれてしまいました。

14YR_WOCESTER.jpg

緑と黄色のサッカーユニフォームを着ているJamesくんが手にしているのが「写ルンです」

 

まだデジカメなんてなかった時代です。

フィルムが入っている写ルンですは、一回撮ってしまったらもう変更できないので

「これは大変!」と私は単純に焦りました。

だけど肝心の「返してっ」という英語なんて知らないわけで。。

ギリギリ出てきた「プリーズ、プリーズ」を繰り返したけれど、全く通じません。

そりゃそうですよね。

プリーズって、「どうぞ(写しちゃって)」っていう意味だから。

学校で習う英語で、言いたいことが言えないという事実に初めてぶち当たった瞬間でした。

これで私は英語にめざめ、学ぶきっかけとなり、帰国子女が多い大学へ進学しました。

ところが大学では、当時みんなが持ち始めていた2センチくらいの分厚くて折りたためない

携帯越しに、英語でペラペラと何かを話す子たちが何人もいました。

「うわ〜カッコイイ〜!!わたしも、いつかあんな風に、英語で話したい!」

という、英語へのあこがれを私はさらに強くしました。

でも現実は、英会話教室に行っても大して上達しないし、外国人の友達なんてひとりもいませんでした。

英語ではほとんどコミュニケーションをとったことのない自分に自信はなくなるばかりだったのです。

半年間かすれ声しか出せなくなる後遺症に

社会人2年目のある日、左の喉にしこりを感じて内科を受診しました。

風邪の症状もあったので、様子を見ましょう

といわれて数カ月たっても

 

なんだかドンドン大きくなってる気がするんです。

さすがにこれはおかしいと思い耳鼻科に行ったら

すぐに大きな病院での検査をすすめられました。

診断結果は、頸部末梢神経腫瘍。

「え、読めない…」

「3センチくらいの腫瘍になっているので

取り除かないとあとあと大変なことになるかもしれない」

あたまが真っ白になりました。

23歳で自分が手術をすることになろうとは

まったく想像していなかったからです。

担当ドクターにはこう言われました。

「まだお若い女性なので、傷がなるべく目立たないように、きれいに縫いますね」

「なに…縫うって。。

わたし、いったいどうなるんだろう」

Doctor with Files

東京で一人暮らしをしていた私は

そのまま東京の病院で手術をうけて入院することにしました。

 

岐阜の田舎から、共働きの両親がそろって仕事を休んで数日間付き添いをしてくれました。

 

4時間に及ぶ手術が終わり、麻酔から覚めた私の前には、母が座っていました。

 

その光景はいまでもはっきりと覚えています。

 

「わたし、声出る?」

 

そう母に聞きました。

かすれた小さな音だったけど

なんとか伝わったようで涙があふれました。

10日間で退院したあとも

喉の痛みと顔の左側のむくみだけは一向に取れませんでした。

なにより恐怖だったのが

声がかすれ声しか出ません。

「わたしはこのまま、思うように声が出せないままの生活なんだろうか」

どんなに腹筋にちからをいれたところで

ボリュームが以前の10分の1以下。

 

目の前にいれば、口の形をみて聞き取ってもらえるけど、電話口だと通じません。

大好きだった歌を歌うことも

大声で笑うことも、あきらめました。

 

遠くに居る誰かに届くような声で

呼ぶこともできなくなったのです。

そんな日々が半年以上続いたあとようやく顔の

むくみがとれ、徐々に声量が戻ってきました。

一度はどん底まで希望を失い

普通に話すことを諦めていた私。

1年以上たって、ようやく元の声量まで

戻すことができました。

「大きな声で誰かと話ができるって、笑えるって、歌えるって、こんなに楽しいことなんだ」

「これからは元気でやりたいことがやれるうちに、全部やってみよう!」

こころからそう実感できたことが

私が言語コミュニケーションに深く興味を持っていく大きなきっかけとなったのです。

日本で武者修行してニューヨークへ

就職超氷河期

新卒としてIT企業にギリギリ入社。

 

毎日単調なOL生活に楽しさを見いだせない

自分がいました。

6年働いたのち、ドメスティックな仕事から

海外に携わる仕事がどうしてもしたいと

商社に転職しました。

そこで人生で初めて

仕事で英語を使う日々が始まりました。

毎日何百通と届く英語のメールや資料を

パッパッと作れるはずもなく

 

朝9時から夜10時過ぎまで働く毎日。

健康診断で尿たんぱくが出て焦ったほどです。

Busy Conference

海外のオフィスに電話をするときは

ダイヤルするときから卒倒するほど緊張して

前もってノートに書いておいた英語の

メモなんてひとつも役に立ちませんでした。

 

会話のキャッチボールが全くつづかず

結局メールで電子辞書を使いながら

内容確認するようなショボさだったんです。

大手自動車メーカーのお偉いおじさんに

20人くらいいる会議で海外事業の報告をしたら

「は?あなたの言ってる意味わかんない」

と言われて

その場の全員を凍りつかせたこともあります。

つけ刃では全くたち打ちできない

ビッグすぎる存在を相手に、体力も精神も

すり減らすほどの苦行を積んだ末に

私はついに海外への道をつかみます。

28歳でニューヨークにて現地社員として採用。

Skyline New York

留学経験がない田舎の女子、初めての海外生活。

そしてすべて英語での仕事。

オフィスでは、ネイティブに混ざって日本人も堂々と英語で仕事しています。

でも私は、ネイティブの英語が聞き取れなくて

まったく理解できませんでした。

だからなるべくメールで対応するようにして

透明人間になりすまし会話を避けていました。

電話なんて鳴ろうものなら

ビクッとして恐怖で固まるほどでした。

誰かほかの人が応対してくれるのをだんまり

お地蔵さんになってじっと待っていました。

ついに、上司から

「おまえわざわざニューヨークまで送り込んだのにぜんぜん使えね〜じゃねえか。」

「甘えてるんじゃねぇ、仕事なんだぞ。」

と怒りの直撃を受けてしまいます。

「せっかくニューヨークまで来て

私はなにやってんだ。」

 

 

「英語で仕事がしたい!って憧れていたくせに

現場に来たら逃げてばっかりいる」

そう、自分が一番よくわかっていました。

英語で思うように意見が言えずぜんぜん

はかどらない仕事に頭を抱え、悩む時期を過ごしました。

しかも長時間労働で、アパートと職場の往復に

疲れはててしまう数カ月が続いたのでした。

『いつか自信をもって英語で対話できるようになりたい。』

『自分の意見を、相手の目をみてちゃんと伝えたい。』

日本にいた頃に思い描いていた、なりたい自分

あれほど憧れていた英語でのキラキラした毎日

は、まだまだ全然遠いところにあります。

ネイティブの声に耳をとぎすまし

発音とフレーズのくり返し練習を続けよう。

とにかく声に出して使ってみよう。

通じなければ

もう一度大きな声で言ってみる。

 

ただ、その繰り返し。

こうして私は、英語でのコミュニケーション力を積みあげていきました。

ニューヨークに暮らし始めて10カ月くらいたって、ようやくネイティブの友達もできました。

さらには、街の中で知らない人とも雑談できるくらいになってきました。

ロンドンの銀行で

ニューヨークで出会った彼(現在は夫)の仕事でロンドンに移住し、転職活動をしました。

エージェントにレジュメを送ったところで

1カ月はまったく連絡なんて来やしません。

夫に

「なんで自分から電話して、アピールしないの?」

と言われて、はたと気づいたのです。

それからは電話で直接、担当者と話をして

まずは自分を知ってもらうことに集中しました。

海外では、待っていては何も起こりません。

​自分から

手にしたいものに向かって行動する。

これをすっかり忘れていました。

London.jpg

こうしてなんとか手にした銀行での仕事。

だけど銀行員の2年目になって私はこう思ったのです。

「このままでは、毎日ルーティンワークを続けるだけで、自分のスキルも英語力も上がっていかない。」

 

「いま何か学ばないと、あとで後悔したくない…」

そこで、金融で働くネイティブの多くが持っている資格を勉強しようと思いました。

米国証券アナリストCFA、銀行のなかでレベルの高い仕事をしたいと思ったら、

まずこれを持っているのが出発点でした。

平日は仕事をしながら、土曜日に資格スクールに通い、日曜日はライブラリーに詰めました。

 

スクールの授業も、テキストももちろんすべて英語。まわりは、ネイティブだけ。

いままでにやったことのないインプット量を

こなさないと全然ついていけませんでした。

だからオフィスでは同僚にも、部長にも宣言してしまうことで、自分を追い込みました。

「わたし、合格しますんで」

ランチの時間は、デスクにいたら電話が鳴って集中できないので、

堂々と小さな会議室にこもって毎日自習を続けました。

家に帰ってからも、夕飯を作るのを忘れたこともたくさんあります。

 

イタリア人の夫が、このわたしのチャレンジにとても協力的だったのが幸いでした。

海外では転職は当たり前だし、チャレンジして

どんどん自分のレベルを上げていくことに価値を見いだす社会。

同じところにとどまっていることを

安定しているとは考えません。

証券アナリストスクールで出会ったネイティブたちは、わたしよりもっともっと若い20代の子たちでした。

「みんな若いのに、ちゃんと働きながら勉強を続けていてすばらしいなあ」

 

「でも、負けちゃいられない。絶対合格する!」

Exam

周囲からのいい刺激を受けながら

4カ月の猛勉強をしました。

 

そして試験当日。

試験会場の目の前のホテルに前泊したのですが、緊張しすぎて全く寝つけませんでした。

 

どうにか眠りにつこうと腕立て伏せやらヨガの

ストレッチなどをしましたが、役に立ちません。

 

おまけに、試験で隣になった人が遅れて入場してきたため、集中力をかなり欠くはめになったのです。

 

「ああ、ダメだったかなあ。またあの短期集中サイア人にもどるのは正直しんどいな…」

 

なんて考えながら岐路についたのでした。

結果発表の日。

Congratulations! というメールが届いたのを見て

「まじーーーーーーーー!!!」

英語で6時間の拷問のような試験を乗り越え

わたしは43%の合格率の試験に一発合格しました。

正直、信じられなかったです。

すぐに、家事などたくさん協力して応援してくれた夫に連絡しました。

You made it!!

Great!!

そう言って

私以上によろこんでくれたのでした。

Sevensisters.jpg

イギリス南部のセブン・シスターズで夫と

英語で資格を勉強することで私は、英語を『使うこと』を実践しました。

この実体験で、めちゃくちゃ自信がついたことは言うまでもありません。

 

4カ月間、仕事をしながら毎日2時間、週末は

5時間以上、英語でみっちり勉強したことで

結果としてインプット量もアウトプット量も

大量に増えました。

英語は話せるようになることがゴールじゃなくて、そのうえで、何をしたいか。

まちがえたらもうけもん。

 

どんどん使うことで、自分でイチから磨きあげた資産となり、さらには武器になる。

 

私は、そう信じています。

 

 

『英語を使って』海外で生活をするということ・仕事をするということ

 

✔ 世界の知らない人に出会えるワクワク感。

✔ 今までビジネスで培ったスキルを英語で試せるチャレンジ精神。

✔ 仕事を通して同じ志を持った人たちと英語で交流することで、自分の視野がもっと広がる楽しさ。

✔ 世界に共感できる仲間が増えることを実感できる。      

 

そんなところが魅力です。

 

だから、あなたにそんな笑顔が増える経験を、もっとしてほしい。

自信をもって、英語で相手の目を見ながら、自分の気持ちや意見を言えるようになってほしい。

 

僕は、私は、こういう人間です!って

誇りをもって世界の人と共感し

対話できるよう

笑顔になれるようなサポートがしたい。

 

英語の学習だけにとどまらず

英語の学びを通じて自分に自信がつき

 

何かに挑戦しようという前向きな気持ちになるよう手を差し伸べたい。

そんな思いから

英語コーチをしています。

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